松島新地(松島遊廓) 料亭

明治時代に築かれた遊郭で、その昔”西の松島”と呼ばれていた「松島新地」についてまとめております。

松島新地(松島遊廓)の写真

松島新地とは

九条新道の商店街の写真

かつては「第二の千日前」や「西の心斎橋」と言われていた九条新道の商店街(2011年頃)

摂津名所図全に描かれた「松が鼻」

通称「松島新地(まつしましんち)」と呼ばれる「松島遊廓(まつしまゆうかく)」は、明治時代に築かれた遊郭である。大阪港へとやって来た船員もよく訪れ、現在の地下鉄中央線はもちろん、昔の大阪市電も大阪港から九条まで1本と市電の便も良い松島は歓楽街として繁栄した。周囲の九条新道の商店街も賑いを見せていたが、大阪大空襲で消失してしまう。

明治の初め頃、新町遊廓(井原西鶴や近松門左衛門をはじめ数多くの文芸作品の舞台となるなど、江戸期大坂文化を語る上で欠かせない場所のひとつ)に代わる大阪の新たな遊廓として、木津川と尻無川の間にある寺島の北部(現在の大阪市西区千代崎1丁目・2丁目)を開発して誕生した。

戦後はいわゆる赤線として復活。当時と同じ松島の名で呼ばれていたが、現在の西区九条1丁目・本田2丁目にあたる尻無川より西が中心となった。

しかし、1958年(昭和33年)の売春防止法施行で名目上は廃止とされた。

寺島の北端(現在の松島公園の北端)に樹齢300年とも言われる松の大木があったことから、同地は「松が鼻」と呼ばれていた。そのため、一説によると「松島」の地名は、松が鼻と寺島の一字を取ったのではないかと言われている。

歴史

明治6年の松島遊廓図

開設当時(明治6年)の松島遊郭図。尻無川と木津川に挟まれた寺島に作られているのが分かる。

寺島の木津川沿いは江戸時代から市街化され、木津川町、九条村町、寺島町が成立し、船大工の多い地域で、その他は西成郡九条村字寺島の田地が広がっていた。

1868年(明治元年)2月に振興策として遊廓の設置が許可され、寺島の北部一帯が開発された。
翌年の明治2年には上記の3町を編入して「松島町」が成立。南隣の岩崎新田との境に堀川が開削された。なお、1872年(明治5年)には町名が細分化されたため、松島町の町域は木津川沿いだけとなっている。

戦前の桜筋の写真

戦前の桜筋

空襲直後の桜筋の写真

空襲直後の桜筋

遊廓の中心となる仲之町の目抜き通りには桜が植えられ、桜筋と呼ばれた。また、川口外国人居留地の南側にあった大阪天満宮行宮が1875年(明治8年)に松島南端の花園町へ移設されたが、行宮の境内にも桜が植えられ、松島は遊廓の他に花見の名所としても知られていた。

  1. 1869年 松島遊廓が成立
  2. 1884年 松島事件(陸軍兵士と警察官の乱闘事件)が発生
  3. 1926年 松島遊郭疑獄
  4. 1945年 大阪大空襲により全焼
  5. 1958年 売春防止法施行により廃止

以後、料亭街「松島料理組合」ということになっているが、営業形態はそれほど変わっていない。料亭の仲居との自由恋愛との名目のためである。尚、大阪府は条例でソープランドを許可していない。

地理

現在の松島新地の規模と、『松島新地誌』の巻末にある地図を参照した赤線時代の松島新地の規模を比較してみると、現在より1.5倍程広かったことが分かる。昭和33年3月1日の松島新地解散時で194軒、うち女給の数は875人と言われている。松島遊廓の青楼500軒、娼姑4000人には程遠いが、吉原並に栄えていたと言える。

大阪府大阪市西区本田(おおさかふおおさかしにしくほんでん)辺りである。
現在は青色の線で囲った部分(いわゆる青線ではない)が松島新地の範囲。

最寄り駅は、「地下鉄中央線 九条駅」「地下鉄長堀鶴見緑地線 ドーム前千代崎駅」「阪神なんば線 九条駅及びドーム前駅」
最寄りの高速道路は、「阪神高速道路16号大阪港線 九条出口及び本田入口」

Googleストリートビューで見る松島新地

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