福原 ソープ(福原遊廓)をご紹介いたします。

福原 ソープ(福原遊廓)

東京の新吉原、京都の島原とともに”さんばら””三ハラ”と並び称され、後に関西有数のソープ街となった「福原遊郭」についてまとめております。

福原 ソープ(福原遊廓)の写真

福原遊郭とは

全国遊廓案内の写真

全国遊廓案内には貸座敷93軒娼妓1320人と記されている

昔の福原遊郭の写真

洋風の姑楼の前で女性が立っている。

「福原遊郭(ふくはらゆうかく)」は、兵庫県神戸市兵庫区福原町に存在した遊郭である。

1858年(安政5年)に日米修好通商条約が締結された後、兵庫の市街地と神戸の外国人居留地周辺の有力者たちは現地に劇場や遊郭の誘致を積極的に行っていた。そして1868年1月1日に神戸港が開通し、神戸港に商人や船員が多く集まるようになると、遊郭設置の声は日増しに強くなっていった(神戸港にいた私娼に人々が殺到したため)。しかし、高級商人や船長クラスの船員を私娼が相手にすることはできないため、1868年(明治元年)2月19日、明治政府から遊郭の設置が許可され築かれたと言われている。尚、福原遊郭は、福原京※1にちなんで命名された。

1870年(明治3年)に鉄道の開通計画で福原遊郭を線路が通ることになったため、1872年(明治5年)、現在の福原町(福原ソープ街)に移転することになった。同年、芸娼妓解放令が出された時には新福原も陰りを見せたが、翌年に「貸座敷」としての営業が認められ、遊郭は存続することになる。

昭和初期には妓楼に洋風の建築様式、ネオンサインが取り入れられるようになり、全国遊廓案内によると貸座敷93軒娼妓1320人と、かなり大きな遊廓だったことが分かる。その後、戦災にて福原遊廓は全焼しその他の遊郭と同じように赤線として復活。売春防止法施行後は、日本屈指のソープ街として知られる事となる。ソープ以外の業種も軒を連ね、日夜大勢の客が足を運ぶ関西有数の風俗街へと変遷していくのである。

※1福原京(ふくはらきょう)は、平清盛が神戸福原の地で行った首都造営計画の通称。現在の兵庫県神戸市兵庫区荒田町・平野町から神戸市中央区中山手通にかけての地域を中心として福原荘が存在し、荘園の中に福原京が置かれていた。

売春防止法施行後

1958年(昭和33年)に売春防止法が施行されると、福原の遊郭は全て廃業し、トルコ風呂が並ぶ地区へと変化した。しかし、トルコ共和国の抗議によってトルコ風呂の名称がソープランドに改められ、福原はソープランド、ピンクサロンなどの施設が密集する地区となっていく。

地区内のソープランドの価格帯は高級店から大衆店まで幅広く、どちらかと言えば大衆店に客が集まる傾向にある。価格の安いサービスに従事する女性の年齢は他のソープ街に比べて若いことが特徴である。

昭和30年代末頃から昭和40年代にかけて、福原では「浮世風呂(うきよぶろ)」と呼ばれる独自の風俗店が営業していた。浮世風呂の建物はかつての赤線時代のものを改築して再使用されたものが多く、畳敷き・小さい風呂付の部屋でサービスが行われていた。トルコ風呂とは異なり、浮世風呂は風俗営業の認可を受けていなかったために、度々取り締まりの対象となっていた。やがて本格的なソープランドが福原に広まり、非合法かつ古めかしい浮世風呂は見かけなくなっていった。

写真で見る福原

夜の福原桜筋の写真

夜の福原 桜筋

夜の福原柳筋の写真

夜の福原 柳筋

柳筋にある柳の木の写真

柳筋には、柳の木があります

金刀比羅宮 神戸分社の写真

金刀比羅宮 神戸分社(ことひらぐう こうべぶんしゃ)

福原ソープ街の路地の写真

福原ソープ街の路地

福原赤線跡の写真

赤線跡。旅館等が立ち並ぶ。

地理

兵庫県神戸市兵庫区福原町。福原桜筋と福原柳筋の両端には大きなゲートがある。赤線で囲った区域が、おおよその福原ソープ街である。

最寄り駅は「阪神・阪急 高速神戸駅」「阪神・阪急・神戸電鉄神戸高速線 新開地駅」「神戸市営地下鉄西神・山手線 湊川公園駅」「神戸電鉄有馬線・神戸高速線 湊川駅」

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